僕とインラインホッケーとの出会いから今までのことを中心にMHLをどんなリーグにしたいか、MHLで皆さんに何を伝えたいかを書いてみました。ぜひ読んでみてください。

encounters

僕がインラインホッケーと出会ったのは1994年、渡米してから六年目の早春、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外の町、トーランスにアウトドアのインラインホッケー専用リンクが出来たのがきっかけだった。

当時、その町で暮らしていた僕は、住んでいたアパートのオーナーが主催するピックアップホッケー(注1)で、時折アイスホッケーをやっていた。ある日、オーナーが市と合同でインラインホッケーの専用リンクを作ることになったことを伝えてきた。今のTSA(Torrance Skate Association)だ。当時はまだ全米を見渡してもインライン専用のリンクはなかった。パイオニア的な存在のTSAは今やインラインの聖地、伝説となっている。リンクが完成するとすぐにテストスケーティングに誘われた。カリフォルニアの太陽の下、スティックを持って乾いた風を受けて滑る真新しいリンクは何しろ気持ち良かった。そして何より僕の心を捉えたのはRollerblade社のLightning(注2)から僕の足に伝わってくる、長年なれ親しんだアイスの滑走感とも、ベニスやサンタモニカでのドラム缶相手のホッケーとも違う独特の滑走感だった。

リンクがオープンするとすぐにリーグが始まった。はじめチームに所属していなかった僕は、リーグに個人で申し込み、チームを紹介してもらい、毎週1回試合をする生活が始まった。この最初に所属したチームのチームメートは今も僕のベストフレンドだ。このチームのことはまた後で詳しく書くことにしよう。

最初のシーズン(1シーズンは約3カ月)が終わる頃、僕はもう一人のベストフレンド、Paul Hugesと会うことになる。友人から紹介されたミネソタ出身の怪しい男は、洋服の生地を扱うディストリビューターだった。僕らはすぐに意気投合し、近くのレドンドビーチやハモサビーチでよく飲んだくれていた。お互いホッケーをやっていることもそんな時の会話の中で知り、僕はPaulを TSAへ誘った。彼はかなり上手く、ちぎれた性格も幸いし、あっという間にチームに溶け込みインラインホッケーにはまっていった。そして三回目のシーズンが始まる頃、彼から相談を受けた。インライン関係のアパレルをやろう思っていると言うのだ。コンセプトはブッ飛んだPaul自身。ブランドネームはBlack Biscuit。行けると思った。(Biscuitとはスラングでホッケーのパックのこと)

今思うと、この1994年はまさに出会いの年だったように思う。この年の夏、もう一つの出会いがあった。大学時代のホッケー部の先輩でASICSに勤めいる加藤克巳氏と五年ぶりに再会した。出張でヨーロッパからアメリカにまわってきたのだ。暇だった僕は、たまたま家に遊びに来ていた中学時代からの親友、伍井紳二とその友人、丸山良樹らと共にサンディエゴ、ハリウッドとついて回り、モーテルのプールで素っ裸で泳いだり、ASICSの社員の方々の部屋で大宴会を開いたりと加藤氏の出張を目茶苦茶なものにしてしまった。それでも加藤氏は一言も怒らず、TSAを見学し、すぐその足でGolden Bear(注3)へ行きインラインホッケーの靴をオーダーした。加藤氏の中に何か灯ったようだった。(その当時は、全ての靴はアイスの靴からブレードを外してインラインのシャーシを取付けるオーダーメイドだったのである。)

(注1):2時間程度の時間を取り、基本的に個人参加で、参加したプレーヤーを2チームに分けてゲームを行うもの。

(注2):インラインホッケーを始めた頃、僕はこのスケートを愛用していた。インラインスケートのベーシック中のベーシック。全てのインラインスケートの前身であるこのモデルはトータルバランスが素晴らしくホッケーでも十分使えた。実は今でも私は公園のラフなサーフェイスでホッケーするときはこのスケートを使用している。

(注3):TSAのそばにあるスケートショップ。オーナーはTSAのボードメンバーの一人。TSAができてから店の売上が十倍になったと言われている。

 

difference

日本でアイスホッケーをやっていた僕にとって、カリフォルニアで出会ったインラインホッケーはまるで違う世界のスポーツだった。まず自由な雰囲気があること、好きなだけプレーができることに惹かれてしまった。日本では連盟に登録しなくては、なんぴとたりともプレーできなかった。しかも用意されているのは年間十試合ほど。ここではそんなもの糞食らえだった。どのチームにも好きなように所属でき、毎週のように各地でトーナメントが開かれていた。極端な話、毎週違うチームからエントリーしてプレーできるのだ。リーグに関してもそうだ。各リンクにインハウスのリーグがあり、しかも違うクラスへの重複登録が認められているのでエントリーさえすれば毎日でもプレーできる。(これは後々自分にとって大変なことになるのだが、、、。)ルールに関しても、とてもフレキシブルだった。ローカルルールをリンクのサイズ、試合時間、プレーヤーのレベルに合わせてどんどん作ってプレーしやすいように調整していた。そしてもう一つ驚いたのは草チームでも(特にキッズのチームには)地元の企業やレストラン、ガソリンスタンド等がスポンサーに付くということだった。アメリカと日本のスポーツ環境の違いを身をもって知る経験となった。

 

bridge

年が変わって1995年になるとアメリカでは各地に専用リンクが建設され、NARCh、NIHA、USAC/RS等の団体が中心となりインラインホッケー界の動きが活発になってきた。一方、日本でもJRHAが設立され第1回の日本オープン選手権が開催されることとなった。加藤氏も大学時代のチームメートを集めチームを出すとのことなので、僕も一時帰国し大会に参加した。チームの成績はあまり良くなかったが、この大会でその後の日本のインラインホッケー界を引っ張っていくことになる小薗井開治氏、平野淳也氏、塚原正剛氏、中地本三郎氏達に紹介された。彼らはこの次の年、1996年に全日本選抜チームを率いてロサンジェルス遠征にやってきた。僕はコーディネーターとしてLABEDA Vikingsと Southbay Golden Bearsとの試合をセットアップし、プレーヤーとしてもゲームに出場、アシストをマークすることが出来た。日の丸を胸に付け、外地で聞く君が代は忘れられない思い出となった。残念ながら全日本チームは二試合とも大敗し、アメリカの強さと底辺の広さををまざまざと見せ付けられることとなった。しかし、作戦面など得るものは多かったと思う。同じ年の6月にJRHA主催で第2回の日本オープン選手権が開かれた。今度はアメリカチームが遠征する番だった。この大会にTeam Black Biscuitを連れて出場したい旨をJRHAに打診したところ、快く了承され招待してもらうことになった。アメリカのがらの悪いホッケーガイ達を連れての珍道中記は後日に譲るとして、試合の方は二回戦でYOMI Hellhoundに敗れてしまいちょっと拍子抜け。その夜、痛飲したのは言うまでもない。しかし、日本のプレーヤーに本場アメリカのプレーヤー達のプレースタイル、ライフスタイルを肌で感じてもらえたのではないだろうか。更に翌1997年3月、全日本チームが再びアメリカにやってきた。この年はアベレージ代表チーム、女子代表チームも一緒で合計3チームが遠征してきた。僕はコーディネーターとして全日本チームに参加し、Black Biscuit Cupにチームを出場させた。ゲームには敵チームであるTeam Black Biscuitから出場した。全日本チームは上位入賞こそ逃したが、地元のチームと大接戦を演じるなど多いに大会を盛り上げ、念願だった海外初勝利をものにした。この遠征には将来の日本のインラインホッケーを背負って立つであろう二人の中学生、高山智宏君と大西光君が参加しており、彼らにとっても貴重な体験になったと確信している。同じ年の6月、今度は岐阜長良川大会へTeam Black Biscuitが招待された。優勝チームとのエキジビションマッチとホッケークリニックを依頼された。3on3の大会だったが、前年のように負けるわけにはいかなかった。僕とPaulはキャラクターが濃く、しかも上手いプレーヤーを慎重に人選し、岐阜でのエキジビションマッチでは数百人の観客の前で本場のプレーを紹介できた。

(この遠征についてはBlack Biscuit のweb siteで紹介されている。http://www.blackbiscuit.com)

 

loco team

このへんで地元で所属していたチームの話しをしようと思う。ホームリンクだったTSAの1シーズンは週1回の試合10ゲームとプレーオフからなっており約3カ月かかった。リーグは大人がGold、Silver、Bronze、Copperの4つのレベル、子供達も年令によって四つレベルに分かれており、自分にあったレベルにエントリーできた。二年目からはハイスクールとカレッジのリーグ、更に大人にPlatinumも加わった。僕が最初に所属したのはトーランスの地元の連中が作って、ハンバーガーレストラン「SNAX」がスポンサーをしているチームで、レベルははっきり言って、たいしたことなかった。というのも僕が申し込んだのはBronzeで、慣れてきたらクラスを徐々に上げていこうと思っていた。僕は最初の試合で2得点を上げ一気にチームの中心選手の一人になったが、いきなりのフルサイズリンクでの45分間の試合に途中で吐いてしまった。きつかった。それでも試合の後、チームの皆に飲みにいかないかと誘われ、当然ついていった。行き先はチームスポンサーのSNAXで店内には馬鹿でかいプロジェクターがあり、早速、僕たちはその日の試合のビデオを見ながらビールを浴びるほど飲んだ。試合のあった日のビールは無料だった。

結局このチームに僕は1997年の暮れに日本に帰国するまで所属していた。このチームで知り合ったカナダ系アメリカ人でFWのEvan Walkerとイタリア系でGKのMike Sorroとは特に仲良くなり、この後いつもつるんでSNAX以外でも色々なチームでプレーした。シーズンが終わりに近づくと次のシーズンに向けてトレードや新チーム結成の動きがある。僕も他のチームから誘われたり、Evanや Mikeと上のレベルのチームを作ったりと忙しかった。前にも書いたがリーグへの重複登録が可能なので2シーズン目から僕達は3チームに所属し、週3回プレーすることになった。この頃から僕は完全にインラインホッケーの虜になっていった。夏にはロングビーチのビーチサイドにあるBayshore Hockey Leagueにチーム登録した。このリーグは当時のLA Dodgersの監督、Tommy Lasordaが主催するとても家庭的なリーグだった。このリーグで現在RHI-Amatureを主催しPro Beach Hockeyの選手でもあるJeff Primeと知り合った、いつもジョークを飛ばしているボストン訛りのナイスガイだ。ここでも地元のスポーツバーがスポンサーについてくれて、日曜日は試合の後、いつも昼からそこで飲んでいた。だから日曜夜のTSAの試合は勝てなかった。それ以降も僕らはStuartやCost to Costのインドアのスポーツコートリンクのリーグに加盟した。気がついたら僕は週に五試合するようになっていた。当時、僕はすでに37才、体力の限界だった。でも腹一杯ホッケーをやったと言う満足感はあった。

 

team black biscuit

僕は地元のチームとは別にもう一つのチームに所属していた。Paul Huges率いるTeam Black Biscuitだ。このチームはホッケーアパレルのBlack Biscuit がスポンサーするトーナメント専用のチームだった。プレーヤーは普段は各々地元のチームに所属し、NARChやNIHA、USAC/RSなどのトーナメントの時に結成されていた。プレーヤーのレベルはとても高く、元LA Blades のCris NelsonやJeff Primeを始めとするプロリーグ経験者や二年連続で全米カレッジのMVPに選ばれたRaulie Liconもロースターに名前を連ねていた。僕はテクニックでは全くついて行けなかったが、スピードだけはなんとかついて滑っていた。トーナメントがあれば、州内なら車で、州外ならば飛行機で、ホッケーバッグを抱えてどこへでも行った。サクラメント、サンフランシスコ、ラスベガス、フェニックス、セントルイス、シカゴなど行った所を挙げればきりがない。泊まるところはいつも安モーテル。ベット一つに二人で寝るのもしょっちゅうだったし、食事は殆どマクドナルドだった。でもみんなホッケーができれば満足だった。そして試合が終われば必ず飲みに行って大騒ぎをした。ホッケープレーヤーはいつももてた。朝起きると知らない女の子が部屋にいることも度々あった。二度の日本遠征も乗りはいつものまんまで、六本木でとんでもない女の子?をナンパしてしまったバカタレもいたが、これの詳しい話は次の機会にしよう。

 

then

1997年の暮れに僕は日本に帰ってきた。今迄も日本へは時々帰ってきていたし、加藤氏や小薗井氏から日本のインラインホッケーの実状を聞いていた。そして常々、日本のプレーヤーに、自由で型にはまらない、それでいて競技スポーツとしてのインラインホッケーの楽しさを直接伝えたいと思っていた。帰国後、加藤克巳氏率いるTeam Lumberyardに所属しリーグに参加する傍ら、加藤氏と共に友人の子供達を集めインラインホッケークリニックを始めた。これは成功を納め、子供達だけではなく、その両親までインラインホッケーをはじめ、Lumberyardは今では3才の子供から50才過ぎのおじさん初心者まで、総勢70人以上が所属する大所帯となっている。一方では小薗井氏率いるJBS Rootsに所属してトーナメントに参加し、トラベルチームの厳しさ、楽しさを満喫している。また、小薗井氏、平野氏、アイスホッケー日本リーグで優勝経験もある荒川和朗氏と共にアメリカに本部を置きクラブチームの世界一決定戦を主催するNARChと提携し、NARCh Japanを設立するべく活動中である。更に今回、アメージング(株)、タイメイテック(株)の協力によりアメージングスクエアにおいて念願のインラインホッケーリーグ、Misconduct Hockey League(注4)を開催することになった。この大いなるチャンスを生かし、皆さんにインラインホッケーを少しでも楽しんでもらい、日本のインラインホッケー界に新風を吹き込めれば、と思っている。

最後に、今まで僕と出会い、関わりを持ってくれた全ての人とHockeyに感謝の意を表したい。

(注4)Misconduct:(名詞)悪い行い、非行、不適切な行い(動詞)悪い行いをする、やりそこなう

 

拙い文章を最後まで読んでくれてありがとうございます。

さあ、

Join us! Let's enjoy HOCKEY!!

1998/1 記